ユクスキュル『生物から見た世界』

生物から見た世界 (岩波文庫)

生物から見た世界 (岩波文庫)

環世界は動物そのものと同様に多様であり、じつに豊かでじつに美しい新天地を自然の好きな人々に提供してくれるので、たとえそれがわれわれの肉眼ではなくわれわれの心の目を開いてくれるだけだとしても、その中を散策することは、おおいに報われることなのである。(p.8)

生理学者にとってはどんな生物も自分の人間世界にある客体である。生理学者は、技術者が自分の知らない機械を調べるように、生物の諸器官とそれらの共同作用を研究する。それにたいして生物学者は、いかなる生物もそれ自身が中心をなす独自の世界に生きる一つの主体である、という観点から説明を試みる。したがって生物は、機械にではなく機械をあやつる機械操作係にたとえるほかないのである。(p.13)

動物主体は最も単純なものも最も複雑なものもすべて、それぞれの環世界に同じように完全にはめこまれている。単純な動物には単純な環世界が、複雑な動物にはそれに見合った豊かな構造の環世界が対応しているのである。(p.20)

だが環世界のこの貧弱さはまさに行動の確実さの前提であり、確実さは豊かさより重要なのである。(p.22)

時間はあらゆる出来事を枠内に入れてしまうので、出来事の内容がさまざまに変わるのに対して、時間こそは客観的に固定したものであるかのように見える。だがいまやわれわれは、主体がその環世界の時間を支配していることを見るのである。これまでは、時間なしに生きている主体はありえないと言われてきたが、いまや生きた主体なしに時間はありえないと言わねばならないだろう。
次章では、空間にも同じことが言えることがわかるであろう。生きた主体なしには空間も時間もありえないのである。これによって生物学はカントの学説と決定的な関係をもつことになった。(p.24)

われわれはともすれば、人間以外の主体とその環世界の事物との関係が、われわれ人間と人間世界の事物とを結びつけている関係と同じ空間、同じ時間に生じるという幻想にとらわれがちである。この幻想は、世界は一つしかなく、そこにはあらゆる生物がつめこまれている、という信念によって培われている。(p.28)

最遠平面はさまざまな形で視空間を遮断するとはいえ、最遠平面というものはつねに存在する。それゆえわれわれは、草地にすんでいる甲虫であろうと、チョウやガ、ハエ、カ、トンボであろうと、われわれのまわりの自然に生息するあらゆる動物は、それぞれのまわりに、閉じたシャボン玉のようなものをもっていると想像していいだろう。そのシャボン玉は彼らの視空間を遮断し、主体の目に映るものすべてがそのなかに閉じ込められている。それぞれのシャボン玉は異なった場所に移ることができるとともに、それぞれには作用空間の方向平面が複数含まれていて、それらがその空間にしっかりした骨組を与えている。自在に飛びまわる鳥も、枝から枝へと走りまわるリスも、草地で草を食むウシもみな、空間を遮断するそれぞれのシャボン玉によって永遠に取り囲まれたままなのである。
みずからにこの事実をしっかり突きつけてみてはじめてわれわれは、われわれの世界にも一人一人を包みこんでいるシャボン玉があることを認識する。そうすると、わが隣人もみなシャボン玉につつまれているのが見えてくるだろう。それらのシャボン玉は主観的な知覚記号から作られるのだから、何の摩擦もなく接しあっている。主体から独立した空間というものはけっしてない。それにもかかわらず、すべてを包括する世界空間というフィクションにこだわるとすれば、それはただの言い古された譬え話を使ったほうが互いに話が通じやすいからにほかならない。(p.50-52)